080529.jpg私の勤め先は、なぜか女性社員がエレベータのボタンを操作するのが暗黙の了解になっているみたいなんです。私みたいな派遣ごときでも、ボタン係りをしてると、後から乗ってきた女性社員がご丁寧に代わってくれるので、なんだか恐縮してしまうほどです。だってそんなの、社内の人なら誰でも、ボタンの前にいる人がやればいいことだと思っているんだよ。私は。

だから、たまたま女性社員がボタン係りを交代しなかったことで、「気が利かないよね」なんて口にするオヤジに、すげえ腹がたったんです。そのときは若い男性社員がボタン係りしていて、それはごく自然な流れでそうなっていたわけです。それでいいじゃん、と誰もが思うはずです。だけど、そのオヤジは女性社員たちが降りていった後に、ぼそっと。「(彼女たち)気が利かないよね」って、その若い男性社員に。

何が気に入らないのかね。私にはまったく理解できないんだよ。そのオヤジの価値観が。見た目50代くらいの男性でした。部長か次長クラスってかんじの。「男の子は雑用なんてしなくていいのよ。そういうのは全部女にやらせりゃいいのよ」とか言われて、ちやほや育てられたのかな。ああやだやだ。そういう育ちって。でも私もしがない派遣社員ですから、その場でカッとして、「うるせーよジジイは」とか言ったらクビになりますから、そこは権力にひれふし黙ったまま、薄毛の後頭部をじっと睨みつけるのが精一杯でした。

そこでふっと、私は自分がオヤジ好きだったはずなのに……という矛盾点に気がついたわけです。結局私のオヤジ好きは生身のオヤジじゃなくて、幻想のオヤジが好きだったわけだ。例えば渋いおじさま俳優とか、ハリウッドのダンディなおじさまとか。理想のオヤジなんて現実にはどこにもいないのだわ。おばさまがジャニーズジュニアかわいーとか、ペ様すてきーとか言っているのとなんら変わらない。いや、それよりも、オタクが二次元美少女に萌えーとか言ってるほうに近いかもしれない。結局私にとってのオヤジはあくまで観賞用なのだった。生身の、手を伸ばせば届くような男なんか面倒くさいと思っているのだ。そもそも男があまり好きではないのだ。異性としての男、という意味で。え、問題発言?!そんなこたないでしょ。

ちなみ私は一応ヘテロセクシュアルです。けれど、どちらかと言えば同性同士のほうが楽。人付き合いという意味で。だけど、同性同士のように異性と友人になれたらという願望は常にある。それは割と切々と求めている。だけどなかなかどうして私にとってそれは難しい。だけどなんとも幸運なことに、異性の友人として最たる存在が今の夫である。夫は配偶者であると同時に、一番の男友達。そんな認識。それがとても好きだし、そういう関係を私は気に入っている。えっと、話がどんどんずれました……。

この際どんどんずれます。考えてみると、ネットでは同性異性をあまり意識せずにお付き合いできるのがとても楽です。私はなぜだかネットではあまりそのへんを意識しないで済む。あくまで「対・人」という認識でいられる。多分それは、ネットは誰も私を外見で判断しない、評価しない、という点があるかもしれない。自分で晒さない限り、顔もスタイルも声も喋り方も関係ない世界。見ているのは私の文章だけ。私にとって文章は、自分を一番出せる手段だ。とか言いながら、全然うまく言えてないことに歯がゆさを感じたりしているわけだが。

何言ってんだろ、私。ホントにしょうもない。なんだか今日は、思ったことをつらつらと書きすぎたかもしれん。
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「まちBBS」がわりと好きで、自分の行動範囲の板はちょくちょく覗くし、たまに書き込む。4月から大幅にゴミの出し方が変わって、今はその話題でもちきり。しがらみのない、見ず知らずの人たちと、住んでいる街の話題で盛り上がるのは楽しい。昔の街並みや歴史、まだ自分も知らない街の側面を知ることができて興味深い。

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いわゆる「セレブ妻・バラバラ殺人事件」、公判のたびにご丁寧に裁判記録がネットニュースにアップされるので、ついつい読んでしまう。検察側の必死さがなんかイヤ。被害者にも、被害者の母親の言い分にもあまり同情できない。なんとなく、歌織被告には頑張ってほしぃ…そんな気持ちが沸き起こってきてはっとする。「印象」って恐ろしいものだ。記事の印象、言葉の印象、態度の印象、顔の印象……「印象」って大事だよ。そして「印象」は身勝手だ。私たちは限られた情報から、自分の抱いた勝手な印象でもって判断し、モニターごしにバッサバッサと相手を斬り捨てる。無責任に。そういうもんだ。いたしかたない。

脳内に作り出す「印象」、そこには自分自身の経験や記憶が如実に投影されてくる。誰かが何かに対して、やたら目を三角にしていきり立っているとき、その理由をたぐると理解に繋がるときがある。その人の経験に基づく嫌悪感なのだと知れば、なるほどそういうことね、となる。共感はできないけどね。そしてそれは自分自身にもあてはまるから、おのずとわが身と向き合うことになる。見えてくれば打ち破ることもできるのだ。とてもしんどくて難しい作業だけど。

今までは、自分がバカだという自覚から、もっと思慮深く、とか、偏見いくない、とか、「バランス」を保とうとするのがさも模範的なのだと、大人として求められている気がしていたけれど、それは返って自分をがんじがらめにしていたかもしれない。歳をとるときらきらしたものは確実に失い、汚いものばかりが澱のように残ってしまう。このままでは確実にそういう状況に陥るような気がした。だから最近は、恐れずに自分の持つ感覚をもう少し大事にしようと思ってる。言葉に対する直感とかもそう。それは良くも悪くも、「自分」を映す自分だけのもの。
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十年以上経つのに、まだ振り切れない記憶がある。過去のことは忘れて、何事もなかったかのように今を暮らしたいのに、その場所に行くと、どうしても思い出してしまう。だから、行きたくない場所には行かないことにした。

毎回律儀に届く誘いのメール。私が断るのを知っていながら、断るたびに残念そうにする。こういう理由で行かないのだと説明したこともあった。なのにまたメールが届く。なんでだ。察してくれると有難いのだけどなあ。

その過去を乗り越えなければならないのだろかと考えたこともあった。行きたくない場所に敢えて行き、克服するべきなのか。

けどやっぱりそれは違う。今後の人生において、私はその過去を克服する必要などないと気がついたからだ。

生きてゆくうえで、乗り越えるべきものと、そうでなく捨ててしまえばよいものを、振り分けることにした。

不要なことを無理にやって、わざわざ心を乱すことはない。だから下手な言い訳もやめて、ただ角が立たぬよう、行けない旨を返信した。
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昨年は何も記憶に残らないほど空白の年だった。嬉しいこともロクになく、ひたすら家事と仕事の繰り返し。友達と会った回数はたったの5回。すごいだろ。けれど今の私にはそれくらいで十分かな。

秋から日照時間が減り、気温が下がるとともに私のテンションもぐーんと下がって、己のくだらない生き様に呆れ果て、ブログも書けないほど落ち込んでいた。これはもう、ほんとに顕著。

とか言いながら、日常では「のだめ」のドラマにハマり、御多分に洩れず影響されて、「ラフマニノフ弾きたいー!」などとのたまい、無性にピアノが弾きたくなってしまった。前々から「いつかはまた弾きたい」と考えていたが、「今まさに!」という衝動に駆られ、さっそくピアノレンタル室を借りて弾き始めてしまいましたがな。

約十五年振りのピアノは、自分のものとは思えないほど指が動かない事実に愕然としながら、簡単な曲をチョイスして少しずつ。それでも楽しい。貪るように2時間ぶっ通し弾いてもまだ足りない!もっと弾きたい!という欲求に自分でも驚いた。

「無」になってひたすら弾く。不思議なことに、それがすごいストレス解消になっていた。まるで心のデトックスや。本当に驚いた。子供の頃はピアノの練習が嫌で嫌で嫌で嫌で、よく暴れては椅子から転げ落ちたもんです。それほど嫌だったのに、なにこの変化は。

実家でそんな話をしてたら、母から「実はあんたを音大に入れるのが夢だった」などと今更告白され、そんなの知らんがな、と初耳で、心底驚いた。もー、驚きの連続。それなのに私ときたら親の心子知らずで、小学生の頃は漫画家になりたくて、寝る時間も惜しんで毎日ノートに四コマ漫画を描いていたんだからダメだこりゃ、だよなー。

けどまー、音大は金かかるし、周りは浮世離れのお嬢様ばかりで、田舎者の私は大いに気後れしたに違いない。しかも入ったところで自分がモノになったとは思えない。ピアノでどうにかなれるなんて、微塵も思わなかった。

というわけで、実家から比較的簡単そうなシューマンの練習本を借りてきた。ラフマニノフには程遠いけど、しばらくこのにわか趣味は続きそうなのだ。
「精神的に辛いときはインターネットなんかから離れた方がいい」(Re: Person I don’t know)

私は気持ちが沈んでくると無気力になって、自分から何かを発信するのが面倒になる。ブログなんかその最たるもので、例え書きたいことが思いついたとしても、すぐさま自己否定的な思いが浮かんで挫かれてしまう。だから読者の反応が怖いとかでなく、それ以前の問題である。むしろ私は読者から批判されても構わない人です。
で、例えばこんな感じで波が押し寄せてくる。

誰もおまえの日常なんか興味ねーし!
誰もおまえの好みなんか聞いてねーし!
誰もおまえに意見なんか求めてねーし!
誰もおまえの読書感想なんか参考にしねーし!
狭い世界で自説のブログ論なんかクソの足しにもなんねーし!
たいした信念もないくせに時事問題に突っ込みいれても底が知れるだけだし、そもそも他の大勢がとっくに突っ込みいれてるし!
だいたいおまえのブログなんかなんの価値もねーし!

とまあ、恐ろしいほどの自己否定でもって全てがナンセンスに思え、黙り込む。だからそういう時は己の生理に従って、自然と書きたくなるまで猫のようにじっとして回復を待つ。ネットを離れて他のことに精を出してみる。

それと上のリンク先でも書かれているように、煮詰まったときは散歩がとても良いです。ジムで音楽聴きながらウォーキングてのもまあいいけど、それよりもやっぱり自然の中を歩くほうが、五感に刺激が与えられて効果的。私も何かで脳の活性化に散歩がいいと聞いたことがあるけれど、実際考え事は、家でじーっと考えてるより、歩いてるとふといいアイディアが浮かんでくることが多い。

私は近所の緑地を歩くのが好きです。楽器の練習、草野球、バーベキュー、犬の散歩、親子連れ、ジョギング、いろんな人を見るのが面白い。季節の花や野鳥を楽しむのもいいし、空を見たり、野良猫をかまったり、草の匂いや虫の音や水の音を聴くのも風流だ。なにより気持ちがリフレッシュされるんだ。

とまあ、つらつらと思っていることを書いてみました。つまり私にとってブログを書くという行為は、例え内容がネガティブなことであったとしても、まだまだ精神的には元気だという、心のバロメーターにもなっているんだなあという話。
今年に入って数人の友人にしか会っていない。あとは職場で友人と顔を合わせるのみ。改めて考えると、寂しいヒトである。いつからこんな寂しいヒトになっちゃった?けれど自分ではちっとも寂しい自覚がないから困ったもんだ。幸か不幸か、家には夫という話し相手がいるし、ネットの存在も大きい。けれどこのままじゃ社会不適合者になりそう。つーか既になっているのかもしれん。

それどころか、ご無沙汰している旧友から皆で集まる誘いが来ても、つい気後れして断ってしまったりする。その理由はわかっているんだ。本当は久しぶりに会いたいのに、一方で恐怖を感じている。みんな頑張ってそれぞれ仕事や家庭でキャリアを積んでいるというのに、私ときたらなんなんだと。この年になっても自分だけが何者にもなれずにいる情けなさを剥き出しに見せつけられて、劣等感に押し潰されるのが怖いのだ。

友達ならそんなこと関係ないじゃん、会って、話して、昔話に花が咲いて、時には弱音を吐くのもアリ、日々のストレスから開放されて、楽しく笑い合えればいいんだよ。…そりゃそうだ。けれどどこか虚しいのはなぜだろう。友達の話を聞くのはとても楽しい。けれど自分のこととなると、実感のある言葉がまるで出てこない。上っ面ばかりのエピソードを喋りながら、頭上にモヤモヤと違和感という名の雲を作っている。今にも叫び走り出しそうになるのを必死に堪えている。私は誤魔化している、何もかも。それがまた後ろめたくもあり、情けなくもある。まあ頑張って何か成し遂げてるからって、胸張って友達に会えるっていうわけじゃないんだけど…。なんつーか、その辺はうまく言い表せないんだけど…。

そこでふと思う。本当は、私はあの人のことを非難なんてできない。肯定はしないけど。同じ穴の狢なのだ。きっと似たような気持ちで日々を過ごしているに違いない。けれど私はひとまず働き銭を得て、社会と接する。だが違いといえばそれだけ。だから尚更危機感ばかり募り、焦ってゆくのだな。

閑話休題。私にとって数少ない大事な友達が、このままでは本当に離れて行ってしまいそう。というか、私が自分から離れてしまっている。よくないね。よくないよ。今度メールする時には、この前は返信しなくてごめんね、と謝ろう。
前回のエントリ「血は争えない」を読んだ人に誤解を与えてはいけないと思って書いときます。

私は今の自分のふがいなさを親のせいにしたことは一度もありません。自分のふがいなさは自分のせいです。このひねくれた性格は自分のせいなのです。

ただ、私の性格が祖母ゆずりだと思うのは事実で、それ以上でもそれ以下でもない。

それと親の名誉のためにも断っておきたいのだけど、私は親が嫌いとか、恨んでるとかってことは一切ないのデス。何不自由なく育ててくれて、不器用なりに愛情も注いでくれた。夫婦仲、嫁姑仲は最悪でとばっちりを受けたけれど、今思えばそんなことは大したことじゃない。だからできる範囲で孝行したいと思っている。

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メンタルなことを書くと必ず後悔する。気持ちをうまく形にできず、文章にするとズレが生じてしまうってのもあるけど。いろいろ言いたいのに、言った先から自己嫌悪する。吐き出したいのに、自分がここで吐き出していることが途端に後ろめたくなる。だったら言わなきゃいいやと飲み込むことも多いけれど、そうすると自分の中にストレスが溜まる。

どっちにしても窮屈だ。窮屈だなあ。ネット上でも日常生活でも、愚痴とか、怒りとか、悪口とか、たくさんある。言いたい。それでも私はネットでだいぶヒドイこと書いてきたけど。(くそガキのこととか、愛犬家のこととか)本当に叫びたいことはもっと酷いことすぎて、いくら見知らぬ人の前だとしても、とても書けないのが実情だ。(汗)自分の黒さが怖くなる。ただひとつ、自分の悪口を書かれることに対しては、あまり気にならないほうだ。そりゃ凹むかもしれないけど、何気に苦笑に変換できるもんだ。うん、多分。もっと書いてもいいよと思う。むしろ面と向かって言って欲しい。…てのは少し強がりだろうか…?

結局私はネットにしろ口頭にしろ、己のネガティブな吐き出しに対して常に自己嫌悪が付きまとうのだわ。この辺の思考回路について思い当たる原因はあるのだけど、それはまた親の話になっちゃうのでやめとく。